知恵あることはなんて愚かなんだろう

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:18~31/メッセージ題目;「知恵あることはなんて愚かなんだろう」  今日の礼拝メッセージのタイトルはパロディです。何のパロディかぴんときた方は、1970年代のフォークソングに通じていらっしゃる方だと思います。これは、早川義夫という歌手の、『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』というレコードの題名のパロディです。  私がそのタイトルを知ったのは大学生のときでしたが、とにかくこのタイトルに衝撃を受けました。すごいことを言っている! かっこいいと思われていることは実はかっこ悪い。かっこ悪いと思われていることは実はかっこいい。このタイトルは、二律背反のこの真理を同時に表していて、恐らくこれまで日本で発売されたすべてのレコードにつけられたタイトルの中でも、最高傑作の部類に属するのではないかと思います。  今日お読みいただいた箇所は、「知恵あること」と「愚かなこと」の二律背反を語っており、そういうわけで、こんなタイトルをつけさせていただきました。「知恵あることはなんて愚かなんだろう」。  今日のメッセージも3つのポイントから語ります。今日は、3つのフレーズでまいります。  第一のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、十字架は」第二のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、宣教は」そして第三のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、クリスチャンになることは」  いずれのフレーズもちょっと過激な表現で、教会や聖書に対して初心者の方や、クリスチャンにことばづかいの上品さを求める方からすれば、ぎょっとするような言い回しになっているかもしれません。でも、どうかよく聴いていただければと思います。  まずは第一のフレーズ、「知恵あることはなんて愚かなんだろう、十字架は」からまいります。  前回のメッセージでお語りしたことは、パウロは、福音というものをことばの知恵によらずに宣べ伝えた、それは、キリストの十字架が空しくならないためである、ということです。福音、すなわち、イエスさまが私たちを救うために十字架にかかって死んでくださったという知らせは、ことばの知恵によらない、ということです。  その前提で18節から20節のみことばを読みましょう。……特に18節に注目します。ここでは、十字架のことばをめぐって、2つのことが対比されています。その前に、「十字架のことば」というフレーズの意味を、もう少し考えたいと思います。 この「十字架のことば」の「ことば」は、言語のギリシア語では「ロゴス」ということばが用いられていますが、これは英語の聖書と韓国語の聖書では、少々ニュアンスのちがう訳し方がされています。英語の聖書の場合は「メッセージ」と訳されています。つまり、「パウロが宣べ伝える十字架のメッセージとしてのことば」という側面が強調されています。 これに対して韓国語の聖書は「道(みち)」と書いて「道(どう)」です。これは、ロゴスという単語が単なる「ことば」という意味を超えて、「教訓」のような「教え」という意味があることが考慮されているためと思われます。そう考えると、どうなるでしょうか?「十字架のことば」は、「十字架を宣べ伝えるメッセージ」とも「十字架を生きる生き方」ともなります。   どちらに取るにしても、意味は通じるはずです。「十字架を宣べ伝えるメッセージは愚か」とも「十字架を生きる生き方は愚か」ともなるわけです。しかし、だれにとって愚かなのでしょうか?「滅びる者たちに」とって愚かなのです。  先週も学びましたが、十字架という福音、よき知らせは、あっけないほどに単純です。こんなに簡単に救われていいのかしら、というレベルです。また、別の見方をすれば、十字架刑に処された者を神とあがめ、救い主とみなすなど、荒唐無稽というものだということでしょう。  前にもお話ししたことがありますが、私は高校時代、倫理の授業で、とても口惜しい思いをしたことがあります。それは「キリスト教」についての授業で、先生がこんなことをおっしゃったのでした。「イエス・キリストはね、十字架にかかって死んだんだよ。それで、墓から生き返ったんだよ!」先生は真面目に話していらっしゃったのですが、これを聞いたクラスは爆笑の渦になりました。 また、「宗論(しゅうろん)」という演目の落語をご存じでしょうか? クリスチャンになった若旦那を笑いものにする噺で、彼が天地創造とか、イエスさまの復活とか、まじめに聖書の話を父親である店の主(あるじ)にすると、主(あるじ)がこう返すわけです。「なに!? おまえ、大学出たんだろ!?」客席が爆笑の渦になります。 あのときのクラスメートにせよ、「宗論」に受ける寄席の観客にせよ、十字架のことばは愚かと思うわけです。十字架を宣べ伝える宣教のことばは愚かですし、そんな愚かな十字架の道を生きるなど、なおさら愚かでしょう。 そんな彼らのことを、このみことばは「滅びる者たち」と一刀両断しています。私はあの爆笑の渦の中にいて、彼らは滅びる定めなのだろうか、と悲しくなったものでした。しかし、悲しんでいてはいけません。18節のみことばは続きます。救われる私たちには神の力です……。 救うのは神さまのお働きです。人にはできないことを可能にしてくださるのが神さまです。十字架が愚かではなく、神の知恵、神の力として、これ以上ないほど確実なものとして信じ受け入れるようにしてくださる……その神さまのみわざが臨むのです。 パウロもそのようにして、十字架の道を迫害する者から、生涯十字架の道を歩むものへと変えられました。「十字架のことばは、救われる私たちには神の力です」、パウロは本来、十字架の道を歩まないどころか、迫害する者、それがパウロの本来の生き方でした。しかし今や、パウロは十字架の道を歩めるように、神さまから特別な力をいただいていました。 私たちもそのように、神さまから特別な力をいただいています。その力をいただきつづけて、ついにその生涯の終わりに、救いを完成します。私たちは本来、滅びる者でした。ゆえに十字架のことばを愚かとしか受け取ることのできなかった者でした。しかし今や、十字架を救いとして受け取る力をいただきました。 その力は神さまが最高の知恵をもって、その力を受けるにふさわしい人に授けてくださったものです。私たちはそのようにして、神さまの知恵にかなう者となり、したがって神さまの知恵をいただく者となりました。未信者から見れば私たちは、とても愚かな道を歩んでいるように見えるでしょう。しかし私たちは、神の力と知恵に満ちた道を歩んでいます。 いま未信者と呼ばれている人、十字架のことばを笑う人の中からも、主が救ってくださらないとだれが言えるでしょうか。いずれそのような人たちも、十字架を笑う生き方から、十字架に従う生き方へと変えられないと、だれが言えるでしょうか。私たちをご覧ください。私たちもまた、十字架を軽んじる生き方から、十字架ほど大事なものはないように生き方が変えられてはいないでしょうか。私たちは世を挙げて人々が十字架を笑うからと、がっかりしていてはなりません。この十字架という最高の知恵をいずれ、私たちがそうだったように、人々が最高の知恵として受け入れることができるように、祈りつつ取り組んでまいりたいと思います。 そこで第二のフレーズにまいります。「知恵あることはなんて愚かなんだろう、宣教は」 十字架を伝えるのは、宣教という手段によることです。しかし宣教というものは、実際にはどのようなものでしょうか? 21節から25節のみことばです。……特に、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」ということばに注目しましょう。コリントにおいては、ギリシア人に交じって、いわゆるディアスポラ、離散したユダヤ人もいました。そのような地で宣教すると、しるしを求めるタイプの求道者もいれば、知恵を追求するタイプの求道者もいるわけです。 それは世界のどこにおいてもそうでしょうし、この日本においても例外ではありません。論より証拠で神を見せてほしいという人もいるでしょうし、納得のいく教えに触れたいという人もいるでしょう。 イエスさまは、そのどちらの人の視線にも降りてこられたお方です。多くのしるしと奇蹟をもって、ご自身が神の御子であることをお示しになりましたし、また、多くの教えを語られて、そのみことばのうちに神さまをお示しになりました。 しかし、イエスさまがほんとうに、ご自身が神の御子であることをお示しになったできごとは、十字架でした。それは多くの人にとって、大いなるつまずきとなりました。熱狂的にイエスさまについて行った人々は、そのお方を十字架につけました。もはやこのような人を神の御子と見なすことはなかったのでした。 それでもペテロは、徹底的に十字架にこだわり、ユダヤ人たちに悔い改めを迫り、一日で何千人もの人を悔い改めに導きました。このときペテロがしたことは、奇蹟によって神を示すことでも、小難しい論理によって人々を納得させることでもありませんでした。ただ、十字架を語っただけです。 このように、十字架を徹底して語る宣教のありかたは、パウロに引き継がれました。しかしこれは、人から見ればとても愚かに見えるありかたです。それでもご覧ください。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」十字架を宣べ伝える者には、この神の知恵、神の力が伴ってきます。 宣教ということは第一に、イエスさまの十字架を語ることです。もちろん、十字架を語ることは勇気がいります。聖書やキリスト教や教会に関することは語れても、十字架だけは語りにくい、語っていない、私たちはそういうものではないでしょうか? しかし、私たちは愚直なまでに十字架を伝えてくれた信仰の先輩によって、いまこうして罪の赦しをいただき、神さまの子どもとして永遠のいのちの中に生かされていることを覚えたいものです。今度は私たちの番です。 そうして、十字架を語る知恵と力を、私たちはいただくのです。このように十字架を宣べ伝えることにこだわるならば、人は私たちのことを愚かとみなすでしょう。しかし、それでこそ私たちは、主の弟子となることができます。私たちも、イエスさまのあとにしたがって、十字架を背負うのです。心の中で日々十字架を背負ってイエスさまについて行くならば、私たちの口から、ひとりでに十字架を誇ることば、十字架を宣べ伝えることばが語られるはずです。 私たちは今週、だれに十字架を語ることができるでしょうか? 職場の方針その他で、イエスさまのこと、わけてもイエスさまの十字架を語ることはなかなかできない、という方はいらっしゃると思います。しかし、主が選んでおられる方に出会えたならば、主は必ず、私たちをとおしてその方にイエスさまの十字架を伝えさせてくださいます。どこかでその機会が与えられ、私たちの愚直なまでの宣教の働きを通して、その方がイエスさまの十字架を受け入れることができますようにお祈りいたします。 第三のフレーズです。「知恵あることはなんて愚かなんだろう、クリスチャンになることは」。 26節から31節のみことばをお読みします。……ここに、私たちは何者であるかを見る基準が示されています。私たちはそれなりの努力をして、何らかの社会的地位についているかもしれません。私たちはそれゆえに、人から認められているかもしれません。しかし、私たちは、自分自身のことをそのように見てはならないのです。私たちは、身分が低い、弱い、知恵がない、愚か……そのように自分自身を認識することからすべてが始まるのです。 イエスさまの周りにいた人たちを考えてください。そのお生まれからして、周りにいた人たちはユダヤの主流の人たちではありませんでした。まずやってきたのは羊飼い、ユダヤの社会から追放されていた者たちです。東方の博士たち、ユダヤから見れば忌まわしい異邦人で、しかも星占いを生業(なりわい)とする人たちです。取税人や遊女たち、ユダヤの宗教社会から隅に追いやられていた庶民たちは、言うまでもありません。 イエスさまの弟子になった者たちも、ガリラヤの漁師たちや取税人、政治活動家、いろいろいましたが、社会の主流派といえそうな者はいませんでした。このようなものをイエスさまはお選びになり、弟子とされたのでした。 それなら、現にこのようにしてみことばを宣べ伝えるパウロはどうでしょうか? 彼はガマリエル門下のエリートのパリサイ人です。その影響力は相当なものがありました。彼はペテロたちとは育ちが根本的に異なっていました。 しかしパウロは、そんな自分もこのコリント教会の信徒たちのように、見下されている人、弱い人、愚かな人と同じものであると主張しています。もはやパウロは、人から尊敬されるパリサイ人のありかたを完全に捨て、神によってしか強く知恵ある者とされない、クリスチャンの立場を選びました。いや、選んだというより、そのような立場にもはや自分がされていることを、積極的に認めるようになりました。 そんな私たちが誇るべきは、もはや自分自身ではありません。救ってくださった神さまこそを誇るべきです。30節をご覧ください。「キリスト・イエスのうちにあります」、これは別の訳によれば、キリスト・イエスに結ばれているとも、キリスト・イエスとの交わりのうちにあるともなっています。イエスさまに結ばれ、イエスさまと交わっている、それが私たちです。 私たちに知恵がなくても、イエスさまが知恵であるとこのみことばは語ります。その知恵とは、「私たちにとって義と聖と贖いになられた」ということです。イエスさまは義、絶対的に正しいお方、正しい基準であるということ。イエスさまは聖、この世の何ものからも分かたれた神さまご自身であられるということ。イエスさまは贖い、このお方が十字架によって私たちをご自身のもの、神さまのものとしてくださったということ。その知恵が私たちに与えられている以上、私たちはもはや愚かな者ではありません。この世のだれよりも知恵ある者、賢い者とならせていただいているのです。 私たちは収入の十分の一からのお金を献金します。日曜日の時間をしっかり礼拝の時間として神さまにささげています。世の人たちが享受するような快楽をむしろ避けて生活します。しかしそれは、あえて禁欲生活をすることで天国を手に入れるためではありません。すでにイエスさまの十字架を信じて天国に入れていただいているから、その十字架の喜びに満たされて、神さまに献身する生き方を選び取っているからです。 その生き方を人は愚かだと笑い、なじるでしょう。しかし私たちは、人に愚かに見えるこの生き方こそ、何よりも知恵があり、力がある生き方であると知っています。人は自分自身を誇ることを当然と思います。しかし私たちの誇りは、このように十字架によって私たちを救って永遠のいのちをくださり、私たちにほんとうの知恵と力を満たしてくださる神さまです。 今日もそのような生き方が与えられていることに感謝し、知恵と力に満たされて生きてまいりましょう。 私たちは弱く愚かな者です。しかし神さまは私たちを選び、十字架を信じる信仰を与えてくださいました。私たちは強くされました。その強さの中で、私たちはイエスさまの十字架を宣べ伝えます。今週もそのように、与えられた知恵と力に感謝しつつ、主の御前に徹底して生きる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。