教会はキリストのからだ

エペソ1:23「教会はキリストのからだ」 小噺をひとつ。最近の高齢化社会、病院の待合室はお年寄りばかり、まるで常連さんのお年寄りの談話室のようになっています。耳を傾けてみましょう。こんなことを話しています。「今日、高橋さんが来てないねえ。」「うん、どっか悪いんだろうねえ。」 こんな冗談もあります。テレビを見ても新聞広告を見ても、健康食品や健康器具の宣伝ばかり。健康になりたい。健康でいたい。健康のためなら死んでもいい。 冗談ばかりでくどいですが、先代の林家三平師匠のギャグに、「からだ大事にしてください」というものがありました。今聞くとこれはギャグでも何でもなく、あたりまえのこと、としか思えません。三平師匠に言われるまでもなく、からだは大事です。健康はしっかり守らなければ。だからご飯もちゃんと食べますし、運動だってちゃんとするのです。 なぜ、からだというものは大事なのでしょうか。それは、神のかたちを映すものだからです。私たちはこのからだを動かして、神の栄光を現します。ことばを操ることだって、口という肉体、手という肉体、脳という肉体を動かすのであって、からだなしにはできないことです。 そのように私たちクリスチャンは、神のかたちにつくられた肉体を用いて、神の栄光を現します。誠実に働いて、さすがイエスさまを信じている人だ、と、周囲にイエスさまを証しします。子どもたちやお年寄り、社会的に弱者にされている人をケアして、神さまの愛と正義を世の中に実現します。どのように生きるにせよ、私たちは神の栄光を現すという大きな目的をもって生きるわけですが、それはすべて、肉体、からだを用いてすることです。 私たちは、聖書をお読みすると、ときに目に見えない神さまを描写する場面に出会います。そのとき、目ですとか、鼻ですとか、口ですとか、手や足ですとか、そういう器官が神さまにあると書いてあります。それは、私たち人間が自分たちの肉体を見て、そこから神さまのイメージを自由に考えてそう描写しているのでしょうか? 人間が口で語るように神さまに口があって語られるとか? いいえ、そう考えるべきではありません。もともと神さまは、人間に見えないだけで、目や口、手足といったものをお持ちであり、人間は神のかたちにつくられたのだから、神のかたちにしたがって、器官や手足がこのようになっているというべきです。 そうです、私たち人間は、神のかたち、どのような肉体に生まれついていたとしても、神のかたちを映す存在です。男性であろうと女性であろうと、お年寄りでも子どもでも、どんな民族であろうと、障害があろうとなかろうと、どんな人でも神のかたちです。 特に障害ということについていえば、障害があるなどといって、差別したり排除したりするのは人間の社会のすることであって、神さまの御目にはそうではありません。イエスさまはそのような障碍者にとてもやさしく、そのような人は親の罪や自分の罪のせいでそう生まれついたのではない、神の栄光が現れるためにそう生まれたのだと断言なさいました。 そういう、からだ。しかし、完璧なからだというものは果たして、この世界に存在したのでしょうか? 神さまによって最初に創造されたアダムも、最後には死にました。そういう意味では完璧なからだではありません。サムソンは恐るべき屈強な男でした。しかし、髪を剃ったら力が抜けるようなからだなど、完璧とは程遠いものです。 完璧なからだが歴史上唯一あったとすれば、それはイエスさまのおからだでしょう。イエスさまのおからだを見るということは、父なる神さまを見るということです。それだけでも、イエスさまのおからだは完璧です。 さあ、ようやくここで、今日の聖書箇所にまいります。こんにち、私たちの住む社会にも、イエス・キリストの完璧なからだはあるのです。それは何ですか? はい、教会が、キリストのからだです。今ここに集う私たち、それが、キリストの完璧なからだなのです。 教会というと、教える会、教えの会と書くわけで、聖書勉強をする集会所のようなイメージがどうしてもあるかと思いますが、教会とは、聖書勉強をする集まり以上の場所です。聖書を学び、学んだみことばをもって兄弟姉妹が愛し合い、その愛をもって隣人に愛を実践すべく遣わされる共同体です。それが、キリストのからだだというのです。 みなさん、自分を見て、お互いを見てみましょう。これが完璧なからだ? キリストのからだ? 信じられない! こんな欠けだらけなのが! こんな病んでいて歪んでいるのが! そう思いませんでしょうか? でも、私たちはキリストのからだなのです。そりゃ、私たちは完璧ではありません。病んでいますし、罪だらけの者です。しかし、私たちはさばく目で自分やお互いのことを見てはなりません。神さまがイエスさまの十字架によって完璧に罪を洗いきよめてくださった、その神さまの御目にしたがって私たちを見たいものです。私たちは神さまがきよめてくださったものです。神がきよめたものを、きよくないと言ってはならないのです。 さて、教会はキリストのからだであるわけですが、福音書を中心に新約聖書に収録されているイエスさまの地上の生涯は、そっくりそのまま私たち教会に当てはまると言っても過言ではありません。なぜなら、私たち教会はキリストのからだである以上、イエスさまがなされたとおりのみわざ、イエスさまが生きられたとおりの生き方を地上で実現することが、神さまによって許されているからです。 とは申しましても、私たちはまだまだ罪の性質が存在するものであり、きよめにあずかりつづけることで、キリストに似たものとされていくことを必要としています。それでも私たちは、罪深い自分たちの姿にがっかりしてしまうことなしに、あきらめないで、キリストが生きられたその地上の生涯を再現する生き方を、教会というこの信仰の共同体をもって実現したいと、強く願いながら生きていきたいものです。 そのためにも私たちは、イエスさまが肉体をもって生きられたその地上のご生涯に、どのようにならうかを考えたいと思います。とはいいましても、イエスさまが肉体をとられた最大の理由は、十字架におかかりになり、復活されるためです。そこから解き明かしていくならば、時間がいくらあっても足りません。十字架に至るあらゆる奇跡、宣教のみわざも同様です。 今日はもっと根本的なことを見てみたいと思います。うちに、『ピーナッツ』の漫画本がありますが、登場人物の紹介で「スヌーピー」のところを見ると、最後に「現在の趣味は寝ることと食べること」とあります。何とも人を食った紹介ですが、犬にとって寝ることと食べることが必要なのと同様、人は寝ることと食べることが必要です。イエスさまも人として生きておられた以上、お休みになることとお食事をとられることは必須でした。ただ、イエスさまの場合のそれは、ただ単に寝ること、食べることとは根本的にその持つ意味が異なっており、私たち教会もその点で、イエスさまにならうものとなりたいわけです。 それではまず、眠る、ならぬ、休息をとる、ということから見てまいりましょう。イエスさまは、取るべき時に休息を取られました。 マルコの福音書1章を読んでみますと、イエスさまは1日のうちに、実に多くの働きをなさっています。これがイエスさまの日常生活だったと思うと、どれほど大変なことだろうかと、凡人の私など読んでいて目を回しそうになります。 このイエスさまの生活を支えていたものは何だったのでしょうか? それは、35節を見ると明らかです。……そうです、御父との個人的な深い交わりです。 イエスさまはおっしゃいました。人の子には枕するところもない。それはどういうことかというと、イエスさまは、この世が求めているような安楽、快楽の中でまことの休息を得るようなお方ではない、ということです。それは、教会もキリストのからだである以上、同じことで、教会もこの世的な快楽でなど休息できません。 笑えない実話をひとつ分かち合います。ある中学生くらいの女の子が、教会でバプテスマを受けることになり、バプテスマの証しを書き、牧師先生にチェックしてもらいました。すると、こんなことが書いてあったというのです。「私は日曜学校のプログラムで、遊園地に行って楽しかったので、バプテスマを受けたいです。」さすがに却下したそうですが、私はそれを聞いて、つくづく、この世的な楽しみは教会に合わないものだ、と思ったものでした。 いずれにせよ、レジャー旅行で遊ぶようなことは、みこころに従った休息と呼ぶには少々無理のあることです。アトラクションに乗るために延々長蛇の列に並び、帰るころには家族でぐったり、なんてなったら、なおさらです。 とは言いましても、せっかくの日曜日を「ネテヨウビ」で過ごすのも困りものです。箴言のみことばは、「眠りを愛してはならない。さもなくば貧しくなる」とはっきり語っています。 ただ、イエスさまも疲れを覚えられたとき、嵐に揺れる船の中であろうともぐっすり眠っておられました。イエスさまも眠られた以上、寝ることそのものは悪ではありません。しかし、箴言のみことばのとおり、睡眠というものは「愛する」べきものではありません。疲れたら充分に睡眠をとることは必要ですが、それは「睡眠を愛する」ためではなく、生産的な働きの実を結ぶうえで力を回復するため以上のものであってはなりません。 しかし逆に、「寝る間を惜しんで」ということは、しばしば美談のように語られますが、それをもてはやすのは慎むべきでしょう。私たちの肉体は限界があります。休むべき時に休まなければなりません。 よく、殺人的スケジュールということばを私たちは用います。このことばは誇張でも何でもありません。私には、高校時代、一緒に旅行に行ったり、学園祭で一緒に劇を演じたりした親友がいました。彼は社会人になって、ある大手証券会社の課長代理をしていましたが、今から十数年前のリーマンショックの頃、ただでさえ多忙だったところにさらに重い責任がのしかかり、たまに会うと明らかにやつれていて、ほんとうに心配になったものでした。そんな彼も長い独身生活の末、ようやく結婚のお相手が決まって、私は喜びました。さあ、いよいよ式だという矢先、彼は突然亡くなりました。過労死というものでしょう。悲しいのとむなしいのと怒りとで、今思い返してもやりきれない思いになります。 この証券マンの友達には遠く及ばないかもしれませんが、かつて日本の教会は、とても忙しくしていた時期がありました。教会は成長を志向し、礼拝はもちろんのこと、日曜学校も平日の祈祷会も、とても活動的でした。特伝、なんていって、特別伝道集会を持ち、そのPRのために教会を挙げて住宅街にチラシのポスティングに行きました。献金もいっしょうけんめいしました。 それはみな、とても素晴らしいことだったにちがいありません。しかし、あれだけ日本中の教会が努力したにもかかわらず、クリスチャンが国民の1%の壁を破るなど、いまだに夢のまた夢です。そればかりか、少子高齢化の波は教会にも容赦なく押し寄せ、いまや兼牧は当たり前、教会合併も今後は増える一方の見通し、そこへもってきてコロナ下はなおつづく……こうなると、教会も今までの在り方を考え直す必要が生じています。 考え直すことはいろいろあるでしょう。しかし私が最も強調したいこと、それは、イエスさまがそうなさったように、教会が御父の前に休息を取りつつ、御父との深い交わりを持つことです。 あれだけ忙しかった中で、教会はちゃんと休んでいただろうか、御父の前で休息をしっかりとっていただろうか……いま、自分たちはきちんと御父の前に憩えているだろうか……ぜひ、胸に手を当てて、ご自身に問うてみていただきたのです。 私は何も、シオン錦秋湖でも日光オリーブの里でも、うちの教会がこぞってどこか遠くに出かけてリトリートの集会を持つべきだ、といいたいのではありません。そのような保養施設やキャンプの存在にも意義があるのは確かですが、私たちがそろって御父との静かな交わりのうちに憩うことは、今いるところでできることです。 それを、教会でともにできる場所があるとすれば……。私はそれを、礼拝開始前の時間だと考えます。 みなさまにお尋ねしますが、みなさまは礼拝に来られるとき、いつも何時何分に礼拝室の椅子についていらっしゃいますか? 私がお願いしたいことは、どんなに遅くても、礼拝開始10分前には椅子についていただきたい、ということです。 そこでみんなで、心を整えて祈るのです。初めはうまくいかなくてもいいです。もっと言えば、居眠りしてしまったってかまいません。その時間こそ、父なる神さまの前に憩いつつ祈り、交わりを持つ、リトリートの時間です。 慣れてくれば、10分前といわず、15分前、20分前、30分前にいらっしゃり、さらに祈りに集中することができるようになるはずです。少しずつ努力しましょう。それはご自身の個人的な時間にとどまらず、教会の兄弟姉妹がともに御前にて憩いつつ御父と交わることにつながります。今日それができなかったとしても、ぜひ来週からでもその時間を持っていただきたければと願います。 次に、食べること、イエスさまが食事をなさったことの意味を考えてみましょう。 イエスさまは神の子でいらっしゃいましたが、食事もしないような超人として生きられたわけではありません。公生涯の初めには40日の断食をなさったと福音書にはありますが、それは公生涯においては例外的なことであり、その断食の終わりにイエスさまが空腹を覚えられたことも、聖書は率直に記述しています。イエスさまは基本的に食事をしていらっしゃいました。 でも、イエスさまはなぜ食事をするのでしょうか? それはもちろん、人として栄養をお摂りになるためでしたが、福音書を読んでみますと、イエスさまがおひとりで食事をされたという場面は出てきません。 あえて挙げるとすれば、十字架の上で酸いぶどう酒を受けられたという箇所くらいですが、これを「食事」に含めるのはかなり無理があります。福音書に収録されているイエスさまのお食事のシーンは、必ずだれかと一緒です。 これはどういうことでしょうか? イエスさまがご自身の肉体の必要を満たされたのは、だれかとの交わりをもってしたことだったことを、私たちに教えているのではないでしょうか? このことからわかることは、キリストのからだを満たし、保つことは、聖徒お互いの間の交わりを持つことから始まる、ということではないでしょうか。私たちのうちのだれかが、礼拝の時間にやってきたら、あとはだれとも話さないで帰る、というのでは、教会は少なくとも、その兄弟姉妹と愛し合うという機会を失ってしまいます。 コロナ下ということは、そのような交わりを持たせなくするという意味において、きわめて悪魔的です。このような状況がずっと続いていることに、どこへも持って行きようのない怒りの声を上げたくなります。 しかし、どうかご理解ください。これはまともなことではないのです。交わりによってお互いが豊かになるということをしない教会は、本来の役割を果たしていないのです。その、本来の役割を果たさないまま続いていることに、私たちは慣らされてはなりません。 私は韓国の神学校にいたとき、友達もいないで、学生食堂でひとりでご飯を食べることの多い者でした。すると、たいてい、ほかの神学生がずんずん近づいてきて、「なんで一人で食べているんですか?」と声をかけてきて、私の向かいの席に座ったものでした。あの頃、私は留学生活でストレスがたまることも多く、そんな親切に対して、ほっといてください、といいたくなることも多かったのですが、いまにして考えると、あれはほんとうにありがたいことで、気を遣ってくれた神学生のみなさんは、キリストのからだということをよく理解しておられたのだなあと思います。 あの頃私は、自分のことしか考えられず、食事というものに対して神さまが与えておられる役割をよく理解していませんでした。ご飯を食べることは交わりのためにすることです。いえ、ご飯だけでしょうか? 何もかもみな、交わりを持つためにすることです。 いま、私たちは教会で会食をすることはしていません。それは衛生のためであり、外部の人への証しのためでもあります。 しかし、そうであっても、私たちから交わりというものそのものが失われたわけではありません。このような中でも私たちは交わりに飢え渇き、会話を交わしています。これは当たり前のことです。なぜなら、キリストのからだなる教会とはそうあるべきだからです。 イエスさまが喜ばれたように交わりを喜ぶ、この祝福が与えられていることを感謝したいものです。 今日は、私たち教会はキリストのからだとしていかなる存在かということを学びました。イエスさまは単に休まれたのではありません。御父との交わりを持たれました。私たちも御父との交わりをともに持つのです。イエスさまは単に食事をされたのではありません。私たち人と交わりを持たれたのです。私たちも兄弟姉妹との交わりを持つのです。そのようにして、キリストのからだとして生きる生き方を全うして、主に喜ばれる私たちとなることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。