「神のしもべたちへの報い」

聖書箇所;ヨハネの黙示録7:1~17/メッセージ題目;「神のしもべたちへの報い」  先々週、私たちの愛する兄弟が主のみもとに召されたのは、あまりに突然のことで、私もどのように受け止めたらよいかわかりませんでした。それ以上に、ご家族はどれほどショックをお受けになったことだろうか……私は牧師として、何と申し上げればいいだろうか。 翌日の土曜日の朝、遠くの地から、ご家族が駆けつけられたとお聞きして、私はごあいさつに伺いました。ほんとうに、なんと申し上げるべきだろうか……自分が沈痛な面持ちでいるのが、自分でもわかりました。  しかし、ご家族は開口一番、こうおっしゃいました。「いえいえ、天国に凱旋したんですから!」凱旋……このおことばに私は、兄弟が王さまのように、勝利した兵隊さんのように、天国の門へと行進していかれるイメージがわき上がってまいりました。どんなに救われた思いになったかわかりません。 私たち、主にあって召された者の終わりは、まさに、「凱旋」と呼ぶにふさわしいものです。それはたしかにさびしいです。その気持ちまで否定してはなりませんが、私たちはむしろ、喜んでもいいのではないでしょうか。 そして聖書は、だれでも体験する人生の終わりとともに、この世界の終わりについても語っています。ヨハネの黙示録とは、この書が書かれた当時、ローマ帝国とユダヤの宗教社会との挟み撃ちに遭い、たいへんな苦しみの中にあった初代教会の主のしもべたちが報われるという希望を語りつつ、のちの世のすべての聖徒たちがキリストゆえに迫害を受けるが、最終的には報われるというよき知らせを語る書です。 今日の箇所、7章は、6章までに展開する、封印がひとつひとつ解かれていくたびに現れる、絶望的な終末の様相とはきわめて対照的な、希望に満ちた天国の情景です。地の者たちはキリストを主と告白しないゆえに、大いなるさばきに服さざるを得ません。しかし天の御国においてはどうでしょうか? この地上で苦しめられた聖徒たち、神のしもべたちが、神さまから大いなる報いを受け取ります。どのような報いでしょうか? 3つのポイントからお話ししたいと思います。第一に、神のしもべたちは、神さまに守られて御国に入れられるという報いをいただきます。 6章に展開する破滅的な場面の中で、第五の封印が解かれた場面にかぎっては、やや方向が異なります。人が終わりの日の様相に苦しむことに変わりがなくても、第五の封印が解かれて見せられるビジョンにかぎっては、反キリストに対するさばきではなく、神のしもべたちに迫害が加えられて苦しむ、という場面です。 キリスト者もまた苦しみます。この苦しみは、私たちの師であり主であるイエスさまが十字架を背負われ、私たちもその御跡を自分の十字架を背負ってついていく者である以上、私たちもまた負わなければならないものです。避けることはできません。むしろ私たちは、積極的にキリストのために苦しむ道を選び取っていくべきです。 しかし、私たち神のしもべにかぎっては、苦しみは報いられるのです。その最たるものは、私たちキリスト者には、さばきは決して臨むことがない、ということです。 1節を見ますと、御使いが四方の風を押さえつけ、地上に吹きつけないように押さえている様子が見えます。その直前の6章12節から17節を見ますと、天地万物、森羅万象に天変地異が起こり、いよいよ終末のさばきが展開する様相が、絶望的な叫びとともに描写されていますが、そのさばきが実際に地上を襲うまで、御使いが地に吹きつける風、さばきを押さえつけている、というわけです。 旧約聖書を読みますと、エレミヤ書49章36節を読んでもわかるとおり、四方からの風はさばきを象徴しています。しかし、その終末のさばきが実際に地に臨む前に、そのときが来たるのを、主ご自身が御使いに命じて遅らせられる、というのです。それはなぜでしょうか? 私たち、神のしもべのゆえです。神のしもべが完全に召され、神さまのものとなる、そのしもべの数が完全に満ちるまで、主はさばきを控えてくださいます。 この、印を押された人の数、14万4000人について、少し解説したいと思います。これは実際に、ひとり、ふたり、と数えて、14万4000人というわけではないのは、お分かりだと思います。聖書には数の象徴がよく登場するのはご存じのとおりですが、3、という数字は、天におられる神さまが、父、御子、御霊の三位のお方でいらっしゃるように、天、を象徴します。そして、4、は、本日の箇所で「四隅」とありますとおり、「地」を意味します。私たちの住む世界がまるい、ということを、私たちは教えられていますが、私たちの感覚は、世界は「東西南北の四角いもの」ではないでしょうか。地は四角、つまり、4、です。 というわけで、天の「3」と地の「4」を足した「7」という数字、また、掛けた「12」という数字が、完全数、ということになります。ことに、ここで出てくる十二部族は、完全なイスラエル、神の民、という意味になります。 その神の民も部族ごとに見ると、12掛ける1000で1万2000人です。1000、という数も、聖書の世界では「生活感覚においてとても大きな数」です。「主の御前では一日が千年、千年が一日」というのも、一年、二年と数えての文字どおりの千年というよりも、かぎりなく長い時、と解釈すべきでしょう。ヨハネの黙示録に登場する「千年の間王となる」という、いわゆる「千年王国」も、この概念で理解されるべきものでしょう。 そうだとすると、各部族から1万2000人というのも、完全掛けるかぎりなく多い数、ということになります。そしてそれに12を掛けるならば、完全で完全な、とても多い数のしもべ、ということになります。完全というのは、神さまが完全であるということであるとともに、神さまによって完全にされたしもべは完全であるということです。 いやはや、この欠けだらけ、罪だらけなのが私たちではないでしょうか。そんな私たちが、完全な神のしもべに加えていただく恵みをいただけるとは、なんということだと思いませんか? しかし、それがみこころです。 そのように主に召される者の数が完全に満ちるまで、この地には破滅的なさばきは望まないことを主は約束してくださっています。実際、ヨハネの黙示録が語られてから1900年あまり、主は忍耐をもってこの世界の罪を見過ごしにしてくださり、さばきから免れさせてくださいました。 とはいいましても、私たち日本のクリスチャンがよく知らないだけで、世界各地には主の御名のために苦しみ、いのちを落としている兄弟姉妹が実に多くいます。気がついたら神のしもべの数が満ちていた、ということも有り得るかもしれません。私たちは、主の日はまだまだ先だ、とばかりに、この世界で快楽や安逸をむさぼっている場合ではないのではないでしょうか。 しかし、私たちがこの世界において、救われた喜びに満たされ、主のために積極的に苦しみを担っていくならば、主は必ず、私たちを終わりの日のさばきから守ってくださるという、報いを与えてくださいます。感謝しつつ、今日の働きに種を蒔いてまいりたいと思います。 第二のポイントです。神のしもべたちは、天上の賛美に加えていただく報いをいただきます。 9節、10節をお読みします。……この9節の大勢の群衆が、神の民から召された14万4000人と同じか、ちがうかは議論が分かれるところですが、印を押された者たちは14万4000と数えられる、9節の大群衆は数えられない、よって別物だ、と断定するのは乱暴です。なぜなら、印を押された神の民の数はいま述べましたとおり、完全でとても多いということを意味する象徴的な数字であり、ある意味では「数えられない」ものであるという点、9節の大群衆とその点で同じだからです。 しかし、印を押された神のしもべはイスラエルの十二部族だから旧約の民、大群衆はすべての国民、部族、民族、言語に及ぶから、世界宣教が達成されて満たされた新約の民、と解釈する向きもあります。その場合、旧約の民と新約の民が合わさって完全な群衆になる、ということになるわけです。 どちらにせよいえることは、神さまと子羊イエスさまの御前に立つことが許された大群衆は、いかにたくさんいるとはいえ、全員が神さまに召された神のしもべであり、一人として欠けてはいない、完全無欠の神のしもべたち、ということです。神のしもべとしての要件を完全に満たしていて、その完全な神のしもべがひとりも欠けずに、完全な数で御前にそろっているわけです。 私たち一人ひとりも、その完全な大群衆の一人に加わっています。というより、私たちはその群衆に欠けていてはならないのです。私たちも全員加わって完全になります。信じますか? アーメンでしょうか? 神の民に加えられていることに感謝しつつ生きてまいりたいと思います。 そんな、私たちを含む神のしもべたちは何をするのでしょうか? そう、10節にありますとおり、主の栄光、主の救いをほめたたえるのです。 彼らは、天のお父さまのお導きによって、神の子羊イエスさまを救い主と信じ受け入れる恵みをいただきました。そのように救っていただいたゆえに、いまこうして天国に入れられ、神さまと子羊イエスさまの御前で大いなる賛美をおささげしているわけです。 実に、イエスさまの救いとは、天国において最もほめたたえられるべき主題です。神さまはなぜほめたたえられお方なのか? それは、神さまが救い主だからです。もちろん、12節の賛美のことばをお読みすればわかりますとおり、神さまはあらゆる賛美を受けるべき主権者でいらっしゃいます。 私がむかしキャンパス・クルセードのスタッフだった佐藤義孝さんからお聞きしたとおり、「私たちはなぜ神さまを賛美するのですか? それは、神さまだからです」ということばは、言い得て妙、以上に、それ以外に言いようがない真理であり事実です。 しかし神さまは、たんに恐いだけの主権者、人と関係のない主権者ではありません。讃美をお受けになるだけの理由をお持ちのお方です。神さまは、私たち神の民、神のしもべを永遠に救ってくださる主権者であるからこそ、賛美されるべきお方なのです。 では、私たちは何から救っていただいたゆえに、神さまを救い主とほめたたえるのでしょうか? いろいろ言えると思います。罪から救っていただいた。悪魔から救っていたただいた。地獄から救っていただいた。……しかし、なんといっても私たちが心に留めるべきことは、私たちが「神の怒りから救っていただいた」ということです。 ヨハネの黙示録6章の締めくくりで、地に住む者たちはなんと嘆いていますでしょうか?「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」現に私たちの世界を覆うあらゆるわざわい、環境破壊や天変地異、疫病の流行といったことを見聞きすると、私たち人間は、自分たちに等しく臨む神の怒りの片鱗を見る思いがするのではないでしょうか。神さまは怒っておられる。それゆえに、この世界は破滅的に破壊される。 しかし、私たちは神さまのこの大いなる怒りとさばきから救っていただいた存在です。聖霊の印が額に押され、神さまのものとされている以上、私たちは神さまの子どもです。神さまがご自身の子どもとしてくださった以上、破滅的な怒りをもって私たちのことをおさばきになることは決してありません。私たちは救っていただいているのです。 私たちの賛美は、神さまがこのように、大いなる怒りから私たちを救ってくださったゆえに、うれしくてたまらないのでおささげするものです。クリスマスの時期など特にそうですが、神さまの救いを知らない人、信じるつもりのない人が、たわむれに賛美の歌を歌うことは、人間的になにやら宗教的高揚感に浸る以上の意味はないはずです。気持ちいいから歌っているだけ。 もちろん私たちは、そういうことを通してでもノンクリスチャンの人々がその歌詞の意味に目が開かれ、救われるようにと願ってやみませんが、歌うことそのものは「歌」以上のものではなく、「賛美」ではありません。よもや私たちにとっての「賛美」が、そのような人間的な気持ちよさのレベルにとどまったものとなっていないか、よくよく自分自身の礼拝態度を点検する必要があるのではないでしょうか。 私たちが賛美するのは、救われた喜びをもって主にすべての栄光をお帰しするゆえです。それは、礼拝の時間に歌うことはもちろんのこと、普段の生活においても、その生活態度、具体的な実践のすべてをもって、救い主なるイエスさまをほめたたえるのです。 私は救っていただいたから、人々とお酒の席で盛り上がるような快楽に陥らない。私は救っていただいたから、だらだらとテレビやインターネットに没頭して無駄に時間を過ごさない。私は救っていただいたから、朝すれ違う町の人たちに笑顔であいさつの声をかける。私は救っていただいたから、からだづくりと楽しい食卓を目指して、腕によりをかけて料理をつくる。こういう生き方はみな、神さまへの賛美の実践です。 もちろん、できること、すべきことは、みなさまおひとりおひとりでちがうと思います。よくお祈りして、何を具体的に取り組めるか、まずはこの1週間にひとつでいいですから、考えてごらんになることをお勧めします。でもその動機は、「救われた喜びの表現」です。救われた喜びをわがものとして、感謝してください。そこから行いは生まれてきます。 最後に、第三のポイントです。神のしもべたちは、地上のあらゆる苦難が報われるという報いをいただきます。この大群衆は、白い衣を着せられていました。天国の民、主の御前に出る者としてふさわしい姿をしていました。その者たちはどこから来たか知っていますか? ヨハネはそのように問われ、私の主よ、あなたこそご存じです、と答えました。 天の御国の長老は何と答えたでしょうか?「この者たちは大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」白い衣は、子羊の血によって洗われたゆえに白いのです。人の罪は緋のように赤いものです。しかし、その、だれもが持っている罪、ひどい罪を洗って白くしていただける唯一の道、それは、子羊イエスさまの血潮によって洗っていただく、ということです。 血によって洗ってきよくなる、という感覚は、羊を飼わない私たちにはぴんと来ないかもしれません。しかし私は以前、いまある神学校の校長先生をしていらっしゃる先生から、こんなお話を聞きました。モンゴルのような大平原で牧畜する地域では、車が必需品である一方で、壊れても直してくれるところなどないので、羊飼いは自分で車を直す必要があるそうです。そうして車を直すと、当然、手は黒い油まみれになります。その油を落とすのに、彼らは羊の血をバケツにとって、それに手を入れて洗うのだそうです。だから、羊の血できれいになるということが感覚的によくわかるのだといいます。 私は羊飼いではありませんが、これを聞いて、なるほど、子羊の血で洗って白くなるということは、牧畜を営んでいた聖書の民には感覚的にわかるのか、と腑に落ちたものでした。 それはさておき、このように子羊の血で洗っていただいて御前に立つ者は、「大きな患難を経て来た者たち」であると語られます。この、ヨハネの時代の聖徒たちがまさにそれにあたりました。 彼らはどんな約束をいただいたのでしょうか? 15節から17節です。この箇所の冒頭の「それゆえ」ということばに注目しましょう。患難を経て、子羊の血で白くされた、それゆえ、ということです。 このように、患難を経て、真に救われた者としてふさわしいことが証しされた者を御前に召してくださるという主の約束が示されました。このことに、この黙示を受け取ったヨハネも、現実に死と隣り合わせの迫害のもとにあったこの時代の聖徒たちも、どれほどの慰めをいただいたことでしょうか。 そしてこの慰めに満ちた約束は、のちの世の聖徒たちにも与えられ、そして今を生きる私たちにも与えられています。先週ご家族は、兄弟とのお別れに涙を流しましたし、私たちも兄弟をお見送りしてからも、兄弟のご意志を受け継いでさまざまな人たちのためにこの地で苦闘するならば、涙を流すことも一度や二度ではありません。しかし、天の御国においては、兄弟の涙はすでにぬぐわれていますし、私たちの涙もまた、神さまの御手によってぬぐっていただけます。 私たちも十字架を背負って主の御跡を従うならば、悲しみますし、苦しみます。しかし私たちのそのような悲しみも、苦しみも、終わりの日に天の御国にて報いていただけるのです。私たちはこのことにかぎりない希望をいだきつつ、今日の労すべき働きに取り組んでまいりたいものです。  私たちは世のさばきから守られ、天の御国に入れていただけます。私たちは神の怒りから救っていただいているゆえに、神さまを賛美する生き方に召されています。私たちのその生き方は十字架を背負う生き方ですが、終わりの日に大いなる報いをいただきます。永遠の喜び、永遠の安息に入れていただけます。 その日を目指して、今日も、明日も、労するための力と希望を、主は私たちに与えつづけてくださいます。 そのようにして私たちが、終わりの日にともに主の栄光を仰ぐ喜びを体験しますように、主の御名によってお祈りいたします。