「報われる苦難、報われない苦難」

聖書箇所;ヨハネの黙示録6:9~17/メッセージ題目;「報われる苦難、報われない苦難」 福音を人々に伝えるチラシ「トラクト」のもいろいろなデザインのものがありますが、みなさんご存知でしょうか、中にはすごいデザインのものもあります。前に見かけたものですが、夕暮れから夜にかけての「おおまがどき」の踏切の写真が紙面いっぱいに写っていて、しかも踏切は警報の赤いライトが毒々しく灯っています。見ているだけで、夕闇の中けたたましくカンカン鳴る警報の音さえ聞こえてきそうです。そこに白抜きの大きな字で「苦しい時は必ず過ぎ去る」……。 すごいインパクトでしたが、普段から苦しみにさいなまれる人々に呼びかけるメッセージです。私はそれを見て、なんとかひとりでもこれを手に取って苦しみから救われてほしい、助かってほしいと願わされたものでした。苦しい時は過ぎ去るのです。このことを私たち人間は希望として持ちつづける必要があります。 さて、人間はだれしも、苦しみ、苦難というものを身に負うものですが、その苦難には、報われる苦難と報われない苦難の2つがあることを、みことばは語っています。今日の箇所はそのコントラストを如実に表しています。 先週のメッセージで私たちは、御座におられるほふられた小羊なるイエスさまがひとつひとつ巻物の封印を解いていかれるたび、終末にふさわしい恐ろしさをもたらす騎馬がひとつひとつ、合計4つ、この地に遣わされることを学びました。偽キリスト、戦争、飢餓、それらのもたらす死……本日はそれに続く、第五と第六の封印が解かれていく様について学びます。私たちはそのような終末の様相の中で、どのような希望を持ち、何を祈るのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 まずは第五の封印が解かれる様です。9節から11節をお読みします。 9節から見てみましょう。どのような者たちがいたのでしょうか?「神のことばと、自分たちが立てた証しのために殺された者たち」がいたのでした。 言うまでもなく、神のことばはユダヤ人の社会には普及していました。しかし、神のことばは、イエスは主であると語っていると宣べ伝えるゆえに、イエスさまを十字架につけたユダヤの宗教社会は、そのようなキリスト教会に迫害を加えました。 兄弟姉妹は、聖書のみことばが「イエスは主である」と語っただけではありません。この聖書の証しする唯一の救い主、イエスさまを信じたことで、自分たちが永遠のいのちをいただいた、どうか信じてほしいと、証しのことばを宣べ伝えたのでした。しかし、彼らユダヤ人の態度は変わらなかったばかりか、ますます頑なになり、激しい迫害を加えました。こうして、使徒の働き7章に記録されているとおり、ステパノは石打ちにあって殺されたのでした。また、同じく使徒の働きの12章を見ると、そのようなユダヤ人の機嫌を取ろうというヘロデの差し金で、使徒ヤコブが剣で殺されました。 迫害を加えたのはユダヤの宗教社会だけではなく、ローマ帝国も同様でした。カエサルではなくイエス・キリストこそ王であると宣べ伝えるクリスチャンたちに対し、ローマ帝国は、それなら、と、カエサルに従うのではなく、イエスさまにお従いする選択をしたのではなく、かえって、カエサルに背く不逞の輩であると、クリスチャンに激しい迫害を加えました。聖書には記録されていませんが、ネロ皇帝による迫害は特に激しいもので、自らローマに火を放ち、その大火事はクリスチャンが火を放ったからだと濡れ衣を着せ、クリスチャンを捕らえて殺し、夜を照らすたいまつの代わりにその死体を掲げて燃やしたと伝えられています。 そのような中でヨハネも捕らえられ、現にこうして島流しの憂き目にあっていたわけですが、ヨハネが見たのは、祭壇の下で、このように殉教した聖徒たちのたましいが、大声で主に叫び求める姿です。 彼らは何を叫んでいたのでしょうか? 10節です。……彼ら殉教者は、もう自分たちは天国に入れられているから、この地上で何が起こっていようと関係ない、となっているのではありません。地上の聖徒たちがいまもなお死の苦しみにさらされていることを悲しみ、嘆いています。主よ、早く、彼らに迫害を加えている者たちをさばいてください! この地上にて苦しむ者たちは、孤独な戦いを強いられているのではありません。天の御国において、殉教していった信仰の先達が、とりなして祈っていてくれるのです。速やかに主の御手が敵の手にくだり、主のしもべたちが守られますように……。そのような殉教者のたましいに対し、どのようなことが起きたでしょうか? 11節です。白い衣……天の御国の民としてふさわしい者たちが着る物ですが、これは「着せられる」ものです。自分で手に入れて着るのではありません。すなわち、人が天国に入るということは、神さまの恵みです。神さまがよしと認めてくださった者が、天国に入れるのです。 この殉教者たち、叫び求める者たちは、天国に入れられる恵みをいただきました。そのとき、どんな御声があったでしょうか? あなたがた、神のしもべたちの仲間で、あなたがたと同じように殺される者の数が満ちるまで、もうしばらく休んでいなさい、と語られました。 彼ら殉教者たちは、どれほどの悲しみの叫びを発していたことでしょうか? 自分たちはこうして地上のいのちを終え、天の御国に入れられている。しかし、地上で私たちのしもべ仲間はどんなに苦しんでいることか! 主よ、なんとかしてください! 苦しみを与える者どもを、早くさばいてください! これは、単に恨みを晴らすという次元の話ではありません。主が愛をもって創造された世界に、依然として悪と不義がはびこり、その悪と不義は主のしもべたちを激しく迫害するという形で露骨に現れている、こうして、主の栄光が地上でいたくけがされている、それは主に献身するしもべたちにとって、あまりにも耐えがたいことでした。 そんな彼らに、主は何とおっしゃいましたでしょうか?「休んでいなさい」とおっしゃいました。この「休んでいなさい」は、新共同訳という訳の聖書を読むと、「しばらく静かに待つように」と書かれています。すなわち「休む」とは、「静かにしていて待つ」ということです。 「静かにする」ということは、「大声で叫ぶ」ことと対照的です。聖書はところどころで、叫び求めて祈る者の幸いを語っていますが、この箇所に関しては、叫ばないで、静かにしていなさい、というのが、神さまのみこころでした。 なぜ、神さまは彼らの悲しみ、痛みを知りながら、「静かに待ちなさい」とおっしゃるのでしょうか? それは、神さまが必ず、終わりの日に、彼らに報いをするからです。 すでに初代教会の数十年間のあいだにも、おびただしく血が流されていました。しかしそれでも、地の果てまで福音が宣べ伝えられるためには、それから約2000年にわたって、さらに多くの犠牲が伴ってきました。今も多くの主のしもべたちが犠牲を強いられています。中には殺された人もたくさんいます。 しかし、主はそのすべての苦しみを覚えてくださっています。だからこそ私たちは、今日の苦しみに耐えることができるのです。この苦しみは必ず報われる。 いま私たちはもしかすると、主のために苦しみを担っているかもしれません。主の愛で人を愛そうとするとき、大きな反発にあって、かえって傷つけられている。主を証ししようとするとき、それを拒まれて迫害される。クリスチャンらしく振る舞おうとすると周りから馬鹿にされる。 それは、海外でいのちが左右されるような迫害にあっている兄弟姉妹のことを考えると、とても軽いものであるかもしれませんが、それでも苦しんでいることに変わりはありません。日本という国は肉体的な命を奪うような迫害は加えないかもしれませんが、いじめや同調圧力などの精神的な迫害を加え、霊的に死んだ状態に追いやるような迫害は、そう意識するにせよしないにせよ、加えてくる民族の国ではないでしょうか。こういう民にキリストを証しすることは、どれほど苦しいでしょうか。 しかし、この苦しみは報われます。なぜなら、主が天における殉教者の叫びに耳を傾け、みわざを成してくださるからです。私たち日本の教会はいのちを落とすような危険にさらされているわけではありませんが、かつて私の尊敬する玉漢欽先生は私の母校で、並みいる神学生たちを前にしておっしゃいました。「日本の教会は、生きた殉教者です。」そのおことばを聞いていらい、私は韓国教会に比べて日本の教会に力がないことに劣等感をいだくのをやめ、誇りを持つようになりました。 生きた殉教者である日本の教会の一員として、天上の殉教者たちの祈りが応えられるまで、終わりの時に至るまでその数を満たすべくこの地上で、主が私たちのことをこの地上で証し人として用いてくださるように、主の御名によってお祈りいたします。 では、もうひとつの苦難の方も見てみましょう。こちらは早い話が、「報われない苦難」です。12節、13節をお読みします。……これは、地上と天体の異常、天変地異です。終わりの日には、こういうことが起こるというわけです。 このような滅亡……読むだけでも恐ろしいものです。できるならば私たちはこの現場に居合わせたくはないものです。ここに書かれているようなことは、ヨハネの黙示録が人類に啓かれてから1900年あまり、まだそのとおりに実現したわけではありません。しかし、このような天変地異が終わりの日に起こることは、マタイの福音書24章29節のイエスさまの予言、ペテロの手紙第二3章の10節と12節の預言のように、聖書のほかの箇所にもしっかり書かれている以上、これは確実なことだと受け取るべきです。 しかし私たち人類は、この2000年のあいだにも、きわめて破滅的な自然災害、天変地異に接することがしばしばあったものでした。そういうことを体験すると、この第六の封印が解かれて起こされる天変地異も、あながち空想の産物ではない、と思えてくることでしょう。実際、この四半世紀近くの間の日本にかぎっても、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本大震災など、大地震が何度となく起こりました。いま世界は、コロナというどうにもならない現実に怯えています。そのたびに私たちは、いよいよ世の終わりということを肌で感じ、身震いしてきたものでした。 しかし、人がほんとうに身震いする理由は何でしょうか? 破壊的な天変地異によってこの世界が終わってしまうことでしょうか? それももちろんですが、そのことそのものよりももっと大きなことを人々は恐れているというべきです。15節から17節をお読みします。 15節を見てみますと、このような天変地異に際して、人々が洞穴や山の岩間に身を隠すと語られています。洞穴、とありますが、これはもしかしたら、ヨハネよりもあとの時代に世界中に無数に掘られることになるトンネルや地下鉄、地下街も含まれるのかもしれません。実際、そういう地下の施設は、有事の際にはシェルターの役割を果たします。モスクワやピョンヤンの地下鉄は特にそのことが意識されていて、とても深いところにトンネルが掘られているそうです。 そこに入って身を隠す者のリストを見ると、王や高官、高位の軍人、金持ちや有力者が優先的にリストアップされています。やはりこの、主のしもべなるクリスチャンたちに対してきわめて敵対的、冷笑的だった、この世で力や支配権を持つ者たちがこぞって逃げ込んでいます。 しかしそれに加えて、すべての奴隷と自由人、ともあります。もちろんヨハネの時代にも奴隷はいましたが、ヨハネが見た幻が未来的、終末的なものであったことを考えると、ヨハネの時代には、こんにちのような規模や仕組みで組織や企業が人を雇うという形態はなかったわけで、もしかするとここでいう「奴隷」とは、むちで叩かれているようなかわいそうなイメージで捉えるべきものではなく、給料で生活する人たちのことを指しているのかもしれません。それに加えての「自由人」ですから、要するに、どんな生活形態をしていようと、社会的な地位や権力があろうとなかろうと、みんな逃げる、というわけです。 しかし、ほんとうの天変地異、終末の天変地異が訪れたら、そんなものはいかに頑丈につくられていても役に立ちません。人々を覆う苦しみは言語を絶するものがあり、人々は生きるよりもむしろ、この山々が崩れてでも、自分を死の恐怖、神の御怒りから隠してほしいと願うのです。 彼らが繰り返して、「子羊の御怒り」と語っていることは、注目に値します。つまり彼らは、自分の罪が子羊イエスさまを十字架につけた、それほど自分の罪は激しく、またひどいものだったことを知っていたのでした。子羊は今や、従順に十字架へと歩まれたお方ではありません。世界の終わりをもたらすべく、天と地のすべてを揺るがし、滅ぼされる、激しい怒りを行使されるお方となっていました。 それでも彼ら罪人は、この期に及んで勘違いをしていました。それは自分のいのちを左右さえする勘違いです。彼らは、神さまとイエスさまから逃げることが、その御怒りから逃れることだという、一縷の望みにかけていました。しかしそれは、人として最もやってはいけないことでした。イエスさまから逃げてはいけないのです。しかし、御怒りは天地万物の破滅とともに迫ってきています。逃げなければなりません。どこに逃げるのでしょうか? イエスさまの中に逃げるのです。 しかし、主の民を苦しめてきた者たちのうち、果たして何人がそのような決断をすることができるというのでしょうか? 彼ら主に敵対する者たちは、主の民が苦しむのを尻目に、この世では快楽を謳歌してきました。そのような者たちは終わりの日にイエスさまのもとに逃げ込むこともできず、報われない苦しみに陥ります。そうです、このように、世の終わりの苦しみに巻き込まれることこそ、ほんとうの苦しみ、報われない苦難です。 私たちはどうでしょうか? テサロニケ人への手紙5章の2節から5節のみことばをお読みしましょう。……私たちはこの「報われない苦難」から守っていただける存在です。それはどれほど感謝なことでしょうか? しかし、なぜ守っていただけると言えるのでしょうか? 続く6節から8節をお読みすれば、その理由がわかります。……そうです、私たちがこの時代の快楽に酔いつぶれてしまうことなく、この時代を警戒し、いずれはこの時代に臨む破滅を見据えつつ、つねに目を覚まして霊的に武装するからです。 私たちにとって、この世はふさわしい場所ではありません。だからこそ私たちはこの世に生きていて、苦しむのです。しかし、私たちの苦しみは、終わりの日に必ず報いられます。神さまご自身が報いてくださいます。その報いは、神の敵、すなわち私たち神につく者たちの敵に、世の終わりにおいて、破滅的な終末を来たらされることによってかないます。 しかし、私たちはここで考えましょう。今私たちのことを苦しめている人たちは、私たちの愛すべき人たちではないでしょうか? 家族や親戚、友達や、尊敬すべき人たちではないでしょうか? そのような人たちまで一緒になって、終わりの日に罪人どもとともに地の穴になだれ込み、イエスさまから離れることを願うと考えたら、私たちの心は平安でいられるでしょうか? 彼らもまた私たちのように救われ、この世の破滅から守られ、報われない苦しみから救われるように、私たちは祈る必要があります。そしてそればかりか、この世でキリストのみあとを自分の十字架を背負って生きる苦難の生き方、報われる苦難の生き方を私たちともにしていくことができますように、そのことも祈ってまいりたいものです。 そのようにして、やがて来る破滅をいたずらに恐れるのではなく、その日に義のさばきと救いが実現され、主の栄光が顕されることを喜びつつ待ち望む私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。