元始、教会は家であった その2~主イエスを家庭に招き入れる~

メッセージ;元始、教会は家であった その2~主イエスを家庭に招き入れる~  私ども夫婦は韓国に住んでいた頃、外国人に料理を教えながら宣教する、山内さんという名前の若い女性の友達がいました。彼女は国籍は日本でしたが、韓国の名前を持っていて、ハングルで印刷された名刺もいただきました。「イェ・マルタ」という名前でした。苗字の「イェ」は、イエスさまという意味だそうで、マルタ、は、彼女のお師匠さんにあたる韓国料理研究家の女性が名づけました。私どもはこの名刺を眺めながら、へえ、マルタって名乗る人もいるもんだな、面白いな、と思ったものでした。  こんなことを思うのも、彼女はとても可愛らしい印象を与える人で、マルタという名前との取り合わせが妙だったからです。なんだか聖書を読むと、マルタは妹のマリアに比べるとちょっと可愛くない印象を受けると思いませんか? アメリカやイギリスには、メアリーさんはいっぱいいても、マーサさんはそこまではいません。有名人でも、カリスマ主婦のマーサ・スチュアートくらいしか知りません。彼女はカリスマ主婦ですから、マーサというお名前がよく似合いだと思いますが、みなさんはいかがでしょうか?  まあ、それはともかく、本日お読みしました本文、これは、マルタとマリアの姉妹の物語です。少し前に、彼女たちの兄弟のラザロのよみがえりから私たちは学びましたが、この姉妹は察するに、親がいません。男手のラザロに稼ぎを頼っていたと推測できます。  この姉妹は、イエスさまにとってどんな立場だったのでしょうか? イエスさまと人々の関係は大きく分けて、「群衆」と「弟子」に分けられます。イエスさまのあとをぞろぞろとついていくけれども、結局はイエスさまから離れてしまうような人たちは「群衆」です。まるでそれは、あまり賢いとは言えない羊の群れのようです。 言ってみればユダヤ人の群衆の間で「イエスさまブーム」が起こるわけです。ブームだから乗り遅れないように、と、ぞろぞろとイエスさまについていくのです。しかしこれでは、何かあったらイエスさまへの信仰をなくしてしまいます。そういうことは何度もあったことが、福音書を読めばわかります。残念なことですが、こういう方は古今東西存在しつづけて、現代の日本の教会にもいるものです。 これに対して「弟子」は、イエスさまについていくと決めたら、一生イエスさまについていく人です。こういう人は、他人がどうあれ、イエスさまについていくということにおいてはぶれません。厳しい訓練にも飛び込んでいきます。そして、率先して神さまのご栄光を顕していくようになります。 聖書というものは、「群れ」ではなく「弟子」という存在を念頭に置いて書かれています。神さまのみこころは、私たち人間が「群れ」で終わるのではなく、「弟子」として、一生イエスさまについていくことです。 しかしこの、マルタとマリア、ラザロの三きょうだいを見てみますと、この3人は「群れ」や「弟子」というカテゴリーに入りきらない存在のようです。牧師や神学者の先輩方は、この三きょうだいのことを、イエスさまの「友」または「友だち」と呼んでいます。 イエスさまに友にしていただけることは、とてもすてきなことです。ヨハネの福音書15章、13節から15節をお読みしましょう。 イエスさまは私たちの友だから、大事な友である私たちのためにいのちを捨ててくださったのです。イエスさまご自身が私たちのことを、もうわたしのしもべではない、わたしの友だ、と言ってくださったのです。あなたはわたしの友だから、わたしの父である神さまのみこころを、全部あなたに知らせよう……。 そのように、イエスさまが友として選び、そのみこころを余すところなく知らせた存在、それがマルタであり、マリアであり、ラザロであったわけです。 私たちはイエスさまの弟子として召されていると信じていますでしょうか? その召しのとおり、私たちは主の弟子でありたいものですが、それ以前に、イエスさまの「友」です。でも、言うまでもないことですが、私たちがイエスさまのことを「友」にしたわけではありません。そんなのは畏れ多いことです。私たちはイエスさまに、「友」としていただいた存在です。 私たちなどイエスさまの足もとにひれ伏すしかない者たちです。近づくこともできない者たちです。それを友として選んでいただいたとは、そのもったいない恵みに、ただ感謝するしかありません。 そんな私たちにとって、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいは、モデルです。イエスさまに愛された、友にしていただいた、という点で、モデルです。私はメッセージでよく、愛する上でのモデル、ということを語ってまいりましたが、「愛されるモデル」というのがあってもいいと思います。 愛されるということがなぜモデルとなるのでしょうか? それは、私たちは、愛されていることが実感できて初めて、愛することが実行できるようになるからです。愛なる神をもっとよく体験することが、私たちにとって必要ではないでしょうか。 それでは、イエスさまはこのきょうだいに対し、どのように愛を行われたか、その愛にきょうだいは、どのようにお応えしたか、実際に見てみましょう。 第一にイエスさまは、きょうだいの家を訪問してくださいました。 とはいいましても、イエスさまとその一行はマルタの招きを受けて家に入っていらっしゃいます。このきょうだいは、ぜひともおうちにイエスさまをお招きしたい! その思いであふれていました。 私たちがイエスさまを迎え入れたいという思いにあふれるならば、それは素敵なことです。私たちはときに、隠しておきたい事情があったりするならば、それがほかの人にはもちろんのこと、教会の交わりにも、家族に対してさえも、堂々とは話せないものです。 しかし、家族であれ、教会であれ、交わりの中心にイエスさまをお迎えしているという意識にあふれているならば、私たちの交わりはとてもオープンなものとなりますし、その交わりを通して、私たちは、いやし主なるイエスさまの癒やしを体験します。 想像力をたくましくしますと、このきょうだいの家族は、父親も母親もなく、三人で肩寄せ合って暮らしているところからして、愛に飢えていた、と言えるでしょう。また、この2人の姉妹は未婚でもあり、社会からは好奇の目にさらされたり、疎外されたりといったことも有り得たでしょう。それなのに、結婚するような機会は巡ってこない……どれほどつらかったことでしょうか。そんなきょうだいが肩寄せ合って暮らしていたのです。 そんな彼らでしたが、イエスさまをお迎えすることで、もう寂しくない、私たちは神さまの愛で愛されている、この思いに満たされることができたのでした。イエスさまもそんな彼らの家に、喜んで入っていってくださったのです。 また、この家を訪問したのは、イエスさまだけではありません。弟子たちもいっしょでした。これで、マルタとマリアの家は、あっという間に教会になりました。はい、まさしく、家が教会なのです。 私たちはここで、恵まれるうえでの2段階を見ることができます。第一に、家にイエスさまを迎え入れる、そして第二に、家にイエスさまの弟子たちを迎え入れる、ということです。 まず、マルタとマリアは、ペテロやヤコブやヨハネに会いたかったというよりも、言うまでもなく、イエスさまに会いたかったのでした。もちろん、ペテロたちに会えてもうれしくはあったでしょう。しかし、ペテロたちに会えてうれしかったのは、彼らがイエスさまの弟子だからであり、イエスさま抜きで彼らに会っても、そこまでうれしかったでしょうか。 私たちはですから、家庭での交わりに、イエスさまをお迎えしているという大前提が必要です。今、ご家族でクリスチャンはおひとりとか、やむを得ない事情でその家族での交わりにイエスさまを迎えられないという方は、ぜひとも、ご家族がイエスさまを迎える家族になれるように、お祈りしていただきたいのです。家族の救いというものは、もちろん、愛する家族にイエスさまを知ってほしいから、祈るものではあります。しかしそれ以上に、イエスさまが私たちの家に訪ねてきたいという、その御思いにお応えするためです。 ヨハネの黙示録、3章20節をお読みしましょう。……イエスさまがともに食卓に着き、私たちのつくった食べ物を食べてくださると想像してください! それはどれほどうれしい食卓でしょうか? 私たちが食事のとき、イエスさまの御名によってお祈りするということは、イエスさまに一緒に食卓に着いていただき、食事を取っていただくということです。私たちの食卓は果たして、イエスさまをお迎えするにふさわしい交わりとなっていますでしょうか? 砂を噛むような味気ない食卓になっていないでしょうか? この世的な話題、あるいは教会の人間関係のゴシップも含めた噺でなら盛り上がれても、主の恵みは分かち合えないではいないでしょうか? イエスさまが席についてくださる。語ってくださる。私たちは家庭であれ、教会であれ、交わりの中にイエスさまをお迎えしている。そんな家庭の交わり、教会の交わりとなるように、祈ってまいりましょう。私たちの語ることばが導かれますように、祈ってまいりたいと思います。 もうひとつ、イエスさまはどのようにこの家族に臨んでくださったのでしょうか? それは、マルタのことを、主の子どもらしく整えてくださる、という形でです。 マルタは、手伝ってくれないマリアにいらいらしていました。しかし、マルタは直接、マリアに「手伝ってよ!」ということはしませんでした。イエスさまに言いつけたのでした。 しかしイエスさまはそんなマルタを、優しく叱ってくださいました。理由は3つあります。まず、マルタはいろいろなことに心が乱れていたから、次に、ほんとうに必要なことはひとつだけだということをマルタは見失っていたから、そして、マリアからそのよいものを取り去ってはいけないから、です。 マルタがいろいろなことに心が乱れていた、とは、どういうことでしょうか? マルタが奉仕をして、イエスさまとその一行をもてなすことはとても素晴らしいことです。しかしいつの間にか、マルタには、奉仕することそのものしか見えなくなってしまっていました。 本来ならば、イエスさまを迎える際には、もっと落ち着いていてしかるべきだったのではないでしょうか? 先に食事をあらかじめ用意して、いざイエスさまをお迎えしたらすべきことを極力最小限にするなどしてです。しかしマルタは、とにかく最上のもてなしをしなくては、その思いにとらわれて、忙しくしすぎて、イエスさまの喜ばれることを見失っていたのでした。 そこで、ほんとうに必要なものとは何か、ということを考えましょう。それは、イエスさまのお気持ちです。ここでイエスさまは、マルタがつくってさしあげた料理を召し上がるわけです。しかし、イエスさまにとってのほんとうの食べ物とは何かが、ヨハネの福音書4章34節に語られています。それは、「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」ということです。 イエスさまは、ご自身がお休みになり、おいしい食べ物に舌鼓を打たれるならば、それで満足されるわけではありません。愛する友だちが、不満を抱えたまま忙しく立ち働くのを見ていては、ひとことおっしゃらなくてはならなかったのでした。 感謝なことに、マルタはこのとき、イエスさまのお声に耳を傾けて、忙しくてたまらなかった手をしばし休めることができました。そして、自分がどんなに、休ませてあげよう、というみこころを人に対して持っていらっしゃるイエスさまのお心がわからなくなっていたか、悔い改めに導かれたにちがいありません。 お掃除にしても、ごはんづくりにしてもそうですが、からだを使って行う奉仕というものは、疲れます。疲れてくると、疲れもせずに休んでいるように見える人が目に入ってきます。それは、人を批判し、さばく誘惑にさらされている、ということになりはしないでしょうか? しかしそのときから、私たちは「休ませてあげよう」というイエスさまの御声が聞こえなくなりかかっている、ということになるのです。これは家庭生活、教会生活の黄信号です。疲れてきたら、人を気にしないで、休む勇気も必要です。それでこそ、主の御前に憩いを得ることができるのです。 もうひとつ、奉仕はとても素晴らしいものですが、その奉仕そのものが目的となって、せっかくイエスさまがその場にいてくださっているという、その恵みを見失ってしまうようでは困ります。せっかくイエスさまが語られ、マリアがその足元でじっと耳を傾けているというのに、やれお水だ、ぶどう酒だ、ごちそうだ……などと、ばたばたお給仕するようでは、果たしてイエスさまはお喜びになったでしょうか? そうです、マルタのこの心乱れた奉仕は、みことばが語られる、この礼拝の雰囲気に大いに水を差すものになっていたのでした。この点でも、マリアが選んだよいもの、たったひとつの必要なものであった、礼拝が、無残にもマルタの手によって取り上げられようとしていて、それをイエスさまがストップされたというわけでした。 では、マリアの方はどうなのでしょうか? マリアは、マルタの性格をよく知っていたはずです。お手伝いしなければ叱られるかもしれない。しかし、イエスさまが来てくださったことによって、思いはイエスさまに集中しきりました。イエスさまが私に対してお喜びになることは奉仕ではない、みことばに耳を傾けることだ……。 奉仕は素晴らしいです。家事は素晴らしいです。料理が作られて人は肉体と情緒が養われ、掃除や片づけがなされてそこにいる人の気持ちがすっきりします。しかしそれも、イエスさまへの礼拝、みことばに耳を傾けることがあってこそです。それをしないでする奉仕は、心を乱すことにしかなりません。自分の心を乱すだけではありません。そこにいて、主のみことばに耳を傾けている人の心もです。 ここまでお話ししましたが、奉仕をするマルタと、みことばを聞くマリアは、どちらがすぐれているか、という問題ではないことをご理解いただけますでしょうか? どちらも素晴らしいことです。しかし、奉仕が礼拝の妨げとなるなら、これはいけません。自分の不満になっても問題ですし、人に対するおせっかいになっても問題です。 しかし何よりも、私たちはこのような、家庭生活にせよ教会生活にせよ、その生活においていちばんに意識すべきは、イエスさまが私たちに対して、どのようなみこころを持っていらっしゃるかです。 いったい、私たちが奉仕のし過ぎで苦しくなることを、イエスさまは願っていらっしゃるだろうか? その前に、「休ませてあげよう」という御声に私たちが素直に聞き従うならば、どんなにかよいことでしょうか? 家庭にせよ教会にせよ、私たちは集団で生活するわけです。しかし、私たちが集団なのは、お互いを見て比較するためではありません。一緒に、イエスさまの御前に行くためです。そのための奉仕です。これを間違えてはなりません。 そこで私たちは、主の御前に静まって、自分自身を省みたいと思います。私たちはイエスさまよりも、人が見えてしまっていなかったか? そのために、疲れていなかったか? イエスさまの御声を聞きましょう。イエスさまはそんな私たちを、慰めてくださいます。休ませてくださいます。 しばらく静まって祈りましょう。私たちはあまりにも忙しくしていなかったでしょうか? この礼拝に臨むときにも、家でやり残してきた家事や、ふだんのお仕事のことなど、気になって仕方がないことがあったりしなかったでしょうか? しかし、私たちが今ここにいるのは、習慣、ルーティン・ワークとしてではありません。このような私たちの弱さをすべてご存じの上で、なお私たちを愛し、守ってくださる、主に心からの礼拝をささげるためです。それは自分だけの礼拝ではありません。ともにささげる礼拝のためにです。 イエスさまが、このような私たちの教会に、家庭に入ってきてくださり、私たちを治めてくださることを感謝いたしましょう。私たちも、イエスさまをお迎えする喜びに満たされてまいりましょう。